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いつわりなきもの [徒然日記]

「天地の神にいつわりなきものを


        疑うならば何がまことぞ」


 おかげを頂いて、今年も信徒会総会、引き続いての新年会が開かれました。私が当教会を後継して今年で二十年となりますが、その当時と今と、この新年会への参拝の数は大差なくおかげを頂いて来ております。亡くなった方や遠くに越して行かれた方などもいらっしゃいますが、その分新たに参加なさる方や入会なさる方があってのことで大変有り難いことに存じます。そうした新たな人や若い人方へ、天地の親神様を信心することの有り難さがしっかりと伝わり行くことを願って止みません。


 さて、冒頭に掲げたお歌です。新年会恒例の今年のみ教えくじで私が頂いたものです。これは大阪教会の初代白神新一郎先生のお歌で、白神先生は教祖様の元で信心を学び、教義を会得なさった方で本教ではそうした教祖様の直弟子の方々を直信(じきしん)とお呼びし、敬っております。


 その白神先生が、教祖様の元で学び得た教えをとりまとめ「御道案内」として人々へ配布なさって御布教に当たられたということです。本教における最初の教義書ともいわれています。


 その「御道案内」のなかで唯二つある歌の内の一つ、歌にするほどの先生の強い思いが感じられます。


 この教えは、単に神様を疑わず信じなさいというだけではありません。その事が分かる一節が「御道案内」の冒頭部分に次の様にあります。


「一つ、大御本社(御本部=教祖様のこと)は正直をもととする神のお道にして・・・信心なる人は、その身はもちろん、先祖をはじめ子々孫々の幸福、徳なるべし。また、せっかく聞きても疑い、なお空吹く風のように聞き流しにする人においては、是非もなき次第なり。」



 「せっかく聞きても疑い」とは、教祖様のご理解(=天地の道理、教え)を聞いても疑って信用しないということです。


 教祖様は因習(日柄方角や世間体、当時の常識など)に囚われ返って難儀な目に陥ってしまう人々には天地の道理に合う生き方を説かれ、男尊女卑や士農工商穢多非人といった身分差別が当たり前の時代にあって、「人はみな神の氏子」と説かれ、人としての尊厳を人々に取り戻し、救いの世界へと導かれました。


 しかしながら、因習と道理の落差を越えて信じる人とすっかり怯えて踏み込めず因習に戻る人や常識家で全く聞く耳のない人、それどころか嘲笑さえする人など様々にあったということです。そしてそれは現代においても言えることで、例え信心をしていても(教師でも信者でも)、ここぞという時には教祖様の御理解を信じ切れず信仰をかなぐり捨て、権利や主義主張に囚われ、さらに難儀な道へと踏み込んでしまうということも見聞きします。


 今年、冒頭のみ教えを頂いた私としても、世間一般の常識とわが道の教えとの狭間で揺らぐことなく、神様のおかげ(恵み、慈しみ、働き)へとつづく道を踏み外さずに、信じ貫く信心を求めて参りたいと存じます。


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