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平和ということ [徒然日記]

 PTSDという病気があります。日本語で「心的外傷後ストレス障害」といいます。ニュース番組や新聞などでたまに見かけますが、改めて調べてみると厚生労働省のホームページに次の様にありました。


「PTSDは、とても怖い思いをした記憶がこころの傷となり、 そのことが何度も思い出されて、恐怖を感じ続ける病気です。命の危険を感じたり、自分ではどうしようもない圧倒的な強い力に支配されたりといった、強い恐怖感を伴う経験をした人に起きやすい症状です。その怖かった経験の記憶がこころの傷(トラウマ)として残り、様々な症状を引き起こしてしまうのです。」

  東北大震災では、命からがら生き延びて助かったのに、自らの命を絶ったり、社会復帰もままならないという方がたくさんおられると聞いています。それほどの心の傷を受けられたということです。

 ボランティアやその後の慰霊祭などで三度ほど東北を訪れ、その悲惨な現状を目の当たりにしましたが、それもほんのごく一部。どれほどの悲劇がそこにあるか想像だにできません。


 しかしながら、この震災は地震や津波という天地の営みからくる避け得ないもの、太古の昔から繰り返し起こってきたものです。私たち人類はその中で助け合い、最小限の被害ですむように努力して、乗り越えてきました。


 比べようはないのかも知れませんが、教科書に載っていた戦後の焼け野原を想起させるような被災地に佇んだとき、なんとも言いがたい恐ろしさを覚えました。


 そして同時に思うことがあります。それは人間は人間の力によって、戦争という行為によって、この光景を、あるいはそれ以上の悲惨な光景を生み出すことができるということです。先の大戦しかり、いま世界で起きている紛争しかり。神をも恐れぬ所業とはまさにこのことだと怖気を震う思いとなります。


 人間を越えるもの、天地、自然、神様の営みのなかで起こり来る震災ならば、そこから生み出されるもの、希望であったり、光であったり、また再生ということもあるでしょう。そして人間の力の及ばないところの、どこか納得とも言える諦めが生まれ得るというものです。しかしながら同じような焼け野原、惨劇でも、それが人間の手によって起こされたものならば、そうした諦や納得ができ得るでしょうか。
 七十年前のかの大戦で、南の島の激戦地から帰還した老人の話が思い出されます。それを語りながら涙する老人の横顔が今なお忘れられません。境内の草取りか何かのご用の合間に、裏の倉庫に二人並んで腰掛け、お茶を飲んでいた時の事でした。今から十年も前のことでしょうか。


 話の内容はあまりの苛酷さにここで書き記すことができませんが、六十年もの間、その苦しみと悲しみ、そして憤りは癒されることなく老人の身を責め立てていたのかも知れません。
 昨今のことで言えば記憶に新しいところの、アメリカのイラク戦争やアフガニスタン紛争でしょうか。アメリカ軍の帰還兵、退役兵の四人に一人がPTSDを患い、自殺者は年間六千人を越え、社会復帰が出来ずに多くのホームレスを生み、中には犯罪を犯してしまったりと、今なおこのことで苦しむ兵士やその家族が数多くいるといいます。
 安保法案が採決された今、近い将来この様な問題に私たちも直面することとなります。


 国連や国際社会における立場の強化、世界経済や外交における優位性や、政党の体制維持(国民の不満を他に向けるなど)、といったものが、国を守る、国民を守るひいては家族を守ることになるとの大義あるいは正義というお題目に転化され、殺戮は正当化されていきます。ある国では、まだ幼い少年が武器をとって向かってきたそうです。その少年も自国を守るためだったに違いありません。その時アメリカ兵は、あふれる涙と共にその子を狙撃したといいます。殺される前に殺さねばならず、またそうも教えられてきたといいます。アメリカ兵は帰還後、妻子を残して自らの命を絶ってしまいました。まだ若い三十代半ばだったといいます。


 兵士も一個の人間、人間である以上心があります。本教では神心ともいいます。学問的には理性ともいうでしょうか。いくら正当化されても、その心までは支配できません。多くの兵士が殺戮の正当化と罪悪感との狭間で苦しみ、心に生涯消えることのない傷を負ってしまいます。国から認められた殺戮でも、人の本来持つ神心や理性はそれを認めることが出来ず、その相反する行為と心によって人の精神は崩壊してしまうのかもしれません。


 多くの悲惨な犠牲によって得られる平和とはいったい何なのでしょう。一人の兵士の精神を破綻させてまで得られるものとはいったい何なのでしょう。そうした犠牲を払わなければ平和は保ち得ないのでしょうか。戦争という手段の中では、一人の人間の命の尊厳は、一枚の枯れ葉よりも軽く扱われてしまうもののようです。

 

 親先生(函館教会三代教会長、矢代礼紀親先生)、親先生はご晩年に、ご教話の中においてか、あるいは普段の会話のなかでか、はたまた頂いたお手紙のなかでか(膨大な数のお手紙を頂いていて探しきれません)、人間の「精神の向上」が大事だとお教えくださいましたね。親先生、今私は、そこに至るにはとてもとても果てしない道のりを感じています。
 親先生なら、今の世を、そしてこれからの世をどのようにご覧になりますか・・・。


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